RHAPSODY In S

S学院・朝霞寮時代についての回想


[ before ]

S学院は、音楽系の専門学校である。もともとはクラシック系で始まった伝統のある学校だったが、やがてジャズ・ポップス系の学科を併設、以降は総合的音楽専門学校として、より知名度も増した。また当時は特異な存在として、音大受験の為の、いわゆる「音大予備校」的な学科も有り、在籍者多数のドル箱として人気を博した(もちろん実績も有った)。近年は、音響や音楽ビジネス、パフォーマンス方面の学科も増設するなど、より幅広く総合的な学校運営を行っている。
そういった「総合的な」学園の状態は、ひっくり返せば、多分に不安定さを孕んでいる、ということでもあり、今になって考えてみると、そう云った点は、学内の雰囲気にも、少なからず影響を及ぼしていたようだ、と思い当たる。確かに、講師陣も学生もジャンル的に混沌としており、一貫しておらず、対立もあり、特に若い年齢層が中心の「初級者向け学科」などは、さながら高額な入会金を採るサークルのようでもあった。しかし、真面目にレッスンに打ち込み、上級(4〜5年)まで進んだ卒業生や、上層部の講師陣の中には、優秀な方々も少なからず居られた、と云う事も「S学院」の名誉の為に付け加えておく。
さて、教育方針の一環として「S学院」は、直営の学生寮を持っていた(当時は二人相部屋)。それが「ピアノの練習室も多数完備し、賄い付きで、田舎の御両親も御安心!」という触れ込みであったが、実際には、お世辞にも音楽を学ぶのに最適な環境である、とは言い難く、単なる技術向上の為に「飼われている」と云う感じに近かった。さらに男子寮の場合、寮監が、新たに赴任したばかりの温厚な夫婦で、業務に不慣れだった事も災いし、寮の規律も有って無きが如くの無法地帯と化してしまいつつあった。また不運にも、その年度の入寮は、ほぼ半数が、不安定な立場と心理状態に置かれた「音大受験」学科に所属する学生達で占められ、残る半数も、放たれた野獣のような「初級学科」新入生達であり、それは即ち、その年の寮生が、何時にも増して、血気盛んな若い無頼漢の集合体である、ということを意味していた。そういった条件が重なり、「S学院」の男子寮、通称「朝霞寮」は崩壊への坂道をゆっくりと下り始めていった。そういう訳で、その様な劣悪な環境の元勃発した様々な事件を、思い出すまま記して行こうという画期的な試みが、この回想録である。

[ 1 ]


僕は高校卒業後、最初はOG大に行ったが「より専門的な音楽の勉強」を目論んで、両親を拝み倒し、無理を言って東京の音楽学校へ入り直すこととなった。もちろん「音楽の勉強」もさる事ながら、東京に出ると云うのも大きな意味を持っていた。と言うのも、 関西地方での生活は、とても刺激的で旦つ興味深く、楽しいものであったが、同時に、そのまま居住し続けることに関しては、限界も感じていたからだ。その様な事情もあり、東京に出るに当たっては、条件的に無理を通せる立場にはなかった。その結果として、条件の一つとしての入寮に関しても納得せざるをえなかったのである。今思えば、2人部屋と云う事自体、すでにやって行ける筈が無かったのは明白なのだが、悪条件を克服してこそ、という気負いもあり、それを呑んでしまった次第である。

さて、大阪からの引っ越しは、直前まで勿体ぶって居たのが災いし(その後の居住条件の事を考慮し、オリジナル作品を大阪で駆け込みレコーディングしていた)大幅に遅れをとり、生活用品、寝具等は入寮の2日後到着、僕の方も時間厳守の入寮式開始の30分後で、大幅遅刻と言う有様であった。そういった中、初対面の寮友たちは至って親切で、到着の遅れによってタ食を食いっぱぐれた私に食物の差し入れがあったり、寝具を提供してくれたり、と至れり尽くせりだった(何故そいつ←S野氏は寝具を 2セット持っていたのだ?)。
そして、さながら合宿のように、恒例の「お話会」が、誰かの部屋にて催され、有志が集まって自己紹介から始まり、自慢手柄話、身近で有った面白い話、霊にまつわる話、恋愛指南の話等、まるでアラビアンナイトの如く、深夜まで続き、皆、軽い興奮状態に陥っている様子が、窺われた。そんな中、私の記憶に今でも鮮明に残る発言があった。それは、全国からこうして寮に集まってきた赤の他人の集団の中に、実はどんな悪人が潜んでいる可能性も無いものでは無いと誰かが述ぺた発言に対し、鈴○雅○氏が答えた、次の見事な返答である。「音楽をやっている者に悪い人間は居ない!」 これに、その場にいた全員が同意し拍手で答えた。しかし基本的部分では同意出来たものの、私は、その取って付けたような模範解答ぷりと、その場の人々の脳天気さに、一抹の不安を感じたのも、また事実である。その鈴○雅○氏に関しては、もう一つ面白い話が有る。その時の自己紹介に於いて彼は、「俺の名前は鈴○雅○だから、気さくに略して、スズマサ、と呼んでくれ。」と言って笑いをとった。その後、アリマ仁という奴が自己紹介をし、「俺の名前は、アリマ・ひとし、だから、気さくに、ジン、と呼んでくれ」と言ったのだが、予想された通り「スズマサ」の方が、すぐに皆に浸透したのに対し、「ジン」などという気取った呼び名の方は、全く通用せず、本人の人柄も相俟って、ただ単に「アリマ」と呼び捨てにされた。人間、持って生まれた人徳は、表面だけで変えてしまえるものではないのであって、機に乗じて変身し てしまおう、などと云う考えは虫が良すぎると言うものだ。また、刈込という奴が、まさに取って付けたような「作り話のような笑い話」を突然、怒簿のように話し始めたのも印象に残っている。今思えぱ、皆、第一印象を勝ち取るのに必死だったと言う事だろう。
ところで、何故僕が、この様に少々覚めて俯瞰的に観察できて居るのかという点については、それは私が彼等より年上であり、初めから、その気がそれほど無かったということもあるが、それだけではなく、僕にとっては、その儀式が「すでに大阪時代に済ませている」ということも理由としては大きいと思われる。つまり、逆に言えば、僕等も大阪では、これに近いことを、していたのであった。しかし若干違いもあって、それは今回の場合は、明らかに度を越して子供じみていると感じる点だ。それは、僕が年上だからそう感じる、と言うだけではない、また別な理由があるのだろうが、それは追々はっきりしてくるだろう。

[ 2


寮生の中に、Fという奴がいた。彼は日頃から言動が少し怪しいと言う噂があったが、特に、他人に危害を加えたりするわけでもないので、僕等はあまり気にしていなかった。そういう少し変わった奴もいるだろうと言う感じだった。しかし、彼と同室だったスワ氏がしきりに、彼の様子がただ者ではないと訴えてくるようになり、皆で彼のおかしな言動について話したり、様子を窺ったりしているうちに、ある朝突然、寮の食堂で泡を吹いて倒れ、救急車で運ばれるという大事件が起こり、実は、彼には「癲癇」の持病が有ったと云う事が判明した。そんな状態の者を親元を離れて寮になど置いておけない、という意見が大勢となり、結局彼は故郷へ帰ることが決まった。寮を去る寸前のある日、彼は学校での授業中にも突然ひっくり返って、我々寮生をヒヤッとさせたが、実は、何かに躓いてコケただけだった、という少々笑いにくいハプニングを起こした。そうして、彼は寮を去り、一瞬だけだが、平穏な日々が戻った。スワ氏から聞いた、彼に関する数々のエピソードの中で、取り分け印象強いのが「インスタントコーヒーを飲むF」というもので、スワ氏の話によると、その飲み方は、カップの半分の位置までコーヒーの粉末を入れ、それに湯を注ぎ、ドロドロにして飲むと云うものである。また朝、頭髪に、瓶の半分もの量のトニック液を振り掛けていた、と云う目撃証言もあった。また毎日ほとんど寝てなかったと言う話もあり、倒れるのも時間の問題だったのでは、と噂された。スワ氏(*註)は、その後も同室の人選には恵まれず、数々のトラブルに見舞われた
(*註)彼はその後、年度終了時に、自身の同性への性的指向をカミングアウトし、寮内で起こった謎の出来事のうち、いくつか(トイレに毎日ティッシュが捨ててあることなど)を、自分の仕業である、と告白した。同室メンバーとの不運な相性も、それに起因するものだったかもしれない。

[ 3 ]


その頃までは、まだ少なくとも表向さは、和気藹々としてる様子だった。合宿気分の軽い興奮状態が、今だ少し効いていることもあって、共通の行事や課題などがあると、数人で一緒に取り組んだり、皆でイタリア歌曲を唱和して試験に備えたり、というように、音楽学校の寮ならでは、の楽しい催しもあったりした。大浴場で「バーバラ・アン」(ビーチボーイズ曲。この曲だけは当時から大好きだった)を大合唱したことなども、この頃の忘れられない楽しい出来事の一つだ。だが、裏に隠れていた細かい諍いは、徐々に表面に現れて来つつあった。音大受験チームのクラシック系と、ポップス系、またクラシック系の中でも、ピアノ派と歌、管楽器派に分かれるなど、ジャンル別のような形でも、次第に軋礫が増した。これは実は、その事自体で反目していると言うよりは、劣悪な環境による過度のストレスの反動として起こっているものであり、早い話が、争う内容など、どうでも良かったと言うのが本当の所だ。(勿論、そのジャンルを選んでいるという個性が、即ち人間のタイプをも分けているのであり、似ていない者同志、或いは、似た者同志と言うことで、ただ鼻に付くということも、有っただろうが。)そして、ついに事件は起こった。

[ 4 ]


ある日、数人の寮生が何事か企んでいる様子が見て取れた。それとなく尋ねてみると、「あいつを、ヤッちまうのさ」という答えが返ってきた。どういうことなのか詳細は分からなかったが、ある人間に対して何かを行うのは確かなようだ。だが、その標的となっている人物に付いては、あまり嫌な印象がなかったので不思議な気がしたのを覚えている。そういう訳でその「催し」は、その夜決行となった。時間が来るまで、メンバーが集められていたようだったが、僕には声が掛からなかったので、少々意外だった。というのは、その催しの主催者の一人が、僕と同室で、仲も良かったカトー氏だったからだ(後から思えぱ、これは不吉な暗示だった)。とにかくその夜、消灯時間後、参加メンバーは集合していった。部外者は来ないよう、直前にカトー氏に釘を刺されたのだが、同じくメンバーに含まれてなかった、隣室のオーバ氏と共に、二人でコッソリ様子を見に行く計画を立てた。場所は寮裏手の空き地、墓地とH技研の工場に挟まれた暗い所だった。僕らが着いた時、10人程が、円陣になっていた。暗いのでメンバーの顔ははっきり見えなかったが、徐々に暗闇に目が慣れてきてみると、その円陣の真中に標的の人物が居り、メンバーはそれぞれ、その標的に対して罵声を浴びせていた。暫くその状態が続いたが、20分ほど過ぎた時、メンバーのうちの一人がいきなり、罵声を浴びせつつ、標的の胸ぐらを掴み手前に引き寄せ、膝蹴りを入れた。それが合図のように、ほかのメンバーも次々に殴ったり蹴りを入れたりした。そしてそれはその後、30〜40分続いた。そういう事だったのである。これ以上実況中継は不要であろう。その日を境に、その標的氏は、暫くの間、他の寮生に対しての言葉使いが敬語になった。そして2〜3ヶ月後、酔った揚げ句、モデルガンのリボルバーを寮の廊下でブッ放し、永久追放された。その後、その催しに関しては、僕の知ってる限りでは、2回計画され、そのうち一回は実際に実行された。その時の「標的 II」氏は、そんなにダメージがある風でもなく、その後も飄々としていた。そして次の、通算3度目の催しの「標的 III」は、他ならぬ僕だった!

[ 5 ]


さて、では「催し」の主催者の一人で僕と同室の、カトー氏とはどういう人物だったのか。そういう事も含め、ここからは直接僕自身にまつわる話を記して行こう。
初日、僕が寮に着いた時、同室の相手を事前には聞かされていなかったため、どういう人物なのか気を揉んでいたのだが、彼の初めの印象は、人当たりや見た目もよく、ジャンルもロック、ポップス系で、エセ・クラシック派に有り勝ちな気難しさとも無縁な様子だったので、一安心といった感じだった。話によると、既に高校時代からアーティスト活動をしており、「ポプコン」にも出たことがあり、地元小田原では有名人だと言う事であった(そして数々の武勇伝の持ち主でもあった)。しかも元はドラマーで、マーチングも教わった経験があり、その後シンガーソングライターに転向したという。そういう、少々似たプロフイールをお互い持っていたため、すぐに気が合ったが、その分反目するのも早かった。お互いがリーダータイプで、相手を認めたがらないという点も共通だったからである。ただ彼としては、特に僕の多重録音作品を聴いてからは、僕に、より興味を持ち、何かやりたがっていた節もあったように感じ られたが、それでも僕の方は一貫して、受け入れ難い態度を変えなかった。と言うのも、 彼が、主にアメリカンポップスやビーチボーイズなどに傾倒し、大滝詠一的路線を狙っていたのに対し、その当時の僕は(今では考えられないが)その方面に全く興味がなかったからだ。更に彼は、山下達郎の影響から「多重録音で歌うといえぱ、アカペラ」というのが当時の彼の中での旬となっていたようで、寮の部屋で、我々の雑音にもめげず、一生懸命ミキサーを用いて多重コーラスを録音していたものだが、当時の僕はその「アカペラ」とやらにも全く興味がなかったのであった。
結果、彼と僕は全く交わらない事が判明し、もし僕が、作品制作を彼と共に行う事に同意してしまうと、自分がやりたくないことを彼のためにやることになってしまい、それは結果的に「僕がやりたいことをやる」ことにならなくなってしまう、と判ったのであった。もちろん、僕のやりたいことに彼の出る幕も無い。更に、彼のヴォーカルには強力な 「フラット癖」が有って、ハモるにも、どうにも居心地の悪い相手であり、そんな事情も彼と距離を置く一因となった。そういう訳で、彼にとっては僕がどうにも心を開かない奴と思ったのも当然である。更に僕は、自分が年が上であると言う事に、無意識の内に軽い優越感を持ってしまったらしく、それが、部屋の中での態度に出てしまい、例えば聴くテープ、互いの持ち物の陣地、消灯時間等、細かいことでも圧迫感を感じ始めたようである。そのうちに彼は、気の合う仲間を連れてきて部屋で騒ぐようになった。僕は以前から睡眠不足には弱かったので、これには閉口してしまったのだが、調子のいい時には、僕も元来騒ぎ好きな方なので、一緒になって大騒ぎする時もあり、それがまた気分屋に映るらしく、彼の逆鱗に触れた。また、何処かで見つけた低価格の横縞のシャツを、彼の提案で、数人の仲間が買い揃え、皆で学校に着て行き、寮生のユニフォームだと言って笑いをとったことがあったが、その企画にも僕だけ乗らず、さらに機嫌を損ねた。
そしてある日の夜、彼の呼び掛けで、僕たちの部屋と隣接する2部屋、計3部屋の6名が集まり、その場で彼により、部屋のメンバーの組み替えが提案された。しかしその提案は僕を含む2名以外の、残り4名で、彼の根回しによる合意がすでに出来ており、寝耳に水だった僕は「悪いところがあれば言ってくれれば 良かったのに〜」と笑いつつも、いよいよ行動に出る積もりだな、と覚悟を決めたのだった。結局、その「部屋の組み替え」案は、寮監の反対によって、一時先送りとなってしまったのだが、その日からの2人は、一触即発となり、僕の方の作戦としては、相手の存在を徹底的に無視(シカト)することにした。幸い、来客用の空き部屋が一つあり、こっそり忍び込んでその部屋に寝泊まりすることもできたので、長期戦に持ち込むのも可能だった。「催し」を企画するような彼の性格から言って、こういう陰険なやり方はかなり効いたらしく、遂に彼の発案による、僕が標的の「第3回催し」が計画された。僕もその動きを察知し、さすがに内心恐れていたのだが、もしその時がきたら可能な限り反撃する心構えも出来ていた。しかし最終的に、その計画は実行されなかった。後から伝わってきた話によると、もう一人の主催であるカズヒロ氏と、アリマの2名が強く固辞した為、断念せざるを得なかったとの事である(賢明なことだ)。
その後、時の流れと共に軋礫も徐々に解消し、カトー氏と僕の関係は、共に夜中語り明かしたりするような仲にまで復活した。だがそれは、お互いが、決して相交わらない物であるという事をそれぞれが認めた結果であり、一抹の寂しさを感じるものでもあった。部屋の組み替えは、その後2〜3ケ月経って寮監の許可が下り、言い出した手前引っ込めづらく、結局行われたが、それは、また新たなる火種の元となった。

[ 6 ]


遂に皆、寮生活に嫌気が差してきた。もうごまかしは、効かなかった。丁度、学校に慣れた時期とも重なり、積極的に寮生以外の学生との付き合いを広げた。僕も、ある催しがきっかけで、2年振りに吹奏楽を再開し、打楽器奏者としての演奏活動に力を注ぐように なった。不快な出来事が寮内で頻発し、辟易していたのもあって、ロック・ポップス派とは、距離を置くようになり、比較的おとなしく真面目なクラシック・管楽器派との親交を深めた。彼等は気難しいところが有る反面ストイックな部分も有り、概して、話せば判るような人柄の持ち主でもあったから、ジャンルを抜きにしても、基本的なところで気が合った。そういう訳で、様々な事件の反動から、クラシック方面に興味が移り、それに関する様々な活動をした。ドビュッシーのピアノ曲を集めたり、スクリャービンを寮友から買ったりしたのもこの時期である。学校のピアノ科には女の子も多かったし、そういう話題にも困らなかったので、一挙両得的な楽しさもあった。
夏休みが来て、一時的に寮から解放され、更に夏休みの終り頃、初級クラス総勢150名の含宿が行われると、ロケーションの良さも手伝って(S学院は、軽井沢に専用の合宿所を持っていたのだ)より一層親睦が深まり、寮生の殆どは益々、寮から気持ちが離れた。そういった訳で、学校のカラーに余り合わなかったロック・ポップス派は、校内、寮内の双方で居場所を無くした。学校に対する期待外れなども重なり、9月からは空しく過ごさねぱならないことは目に見えていた。無責任な話だが、校内のシステムや講師陣も、彼等を掬い取れるようには成って居なかったのだ。 そうして夏休みは終り、皆、寮に帰ってさた。

[ 7 ]


部屋の組替えが行われた結果、カトー氏は通称「オジサン」と呼ばれる人物と同部屋になった。「オジサン」は東北出身で、やはりシンガーソングライターを目指していた。選ばれた理由としては、カトー氏と仲が好かったことも確かだが、比較的おとなしい人物だったので、扱いやすかったというのも多分にあると思われる。「オジサン」は、他の誰よりもオリジナル曲のレパートリーを、他人に歌って聴かせたり、デモテープで聴かせる頻度が高かった。そういう点に限って言えば、僕にとってはカトー氏より印象が強い。曲自体は、ビートルズをルーツとした素朴な作風が多かったが、そういう行為そのものは、本物のシンガーソングライターのようで、驚かされた。
僕は(僕と同じく催しに招聘されなかった)オーバ氏と同部屋になった。オーバ氏も東北出身で、リッチーブラックモア派であることからも判る通り、正確なピッキングが取り柄のギタリストである。当時はまだアドリブは不得意だったが、ロック・ポップス派には珍しいストイックなタイプ、実際、テクニックはナカナカのものだった。リズムにも大変うるさく、今でいう「グルーヴ」にこだわるタイプだった。完全にロック肌の人で、音楽的才能の面では、一番好感が持てた。ロック以外は門外漢だったにもかかわらず、直感は鋭く、学校でも先生や講師に対して、卒業寸前までアイディアや注文を出し続け、一目置かれた。同部屋になる前は、それ程話す機会も多くなかったが、部屋が一緒になってからは、いろいろと真面目な話をする間柄となった。
逆に、カトー氏とオジサンは、捨て鉢になったのか、二人でずーっと、ふざけてばかりいた。一番覚えているのは、クラスに居た、台湾からの留学生数人の内の一人の名前「チン・ジュンチン」を、一日中、交互に色々な言い方で叫んでいるという行事だったが、他にも枚挙に暇がないほどの技を毎日披露していた。そういった関係だったから、二人はさぞかし気が合う仲なのだろう、と思っていたのだが、実はそうではなかった。カトー氏が外泊していたある日、部屋に残されていたカトー氏の私服などに、「オジサン」がヘアトニックやらローションやらを一瓶ぶっ掛けている場面を目撃してしまったのだ。それまでの様々な出来事に慣れて来ていた僕も、さすがにこれはドン引きしてしまった。今思えば、ただ単にふざける相手としてお互い利用していただけで、特に気が合ったわけでもなかったのだろう。ただ、「オジサン」のその行為については当時、東北らしい(と言うと偏見だが)陰湿さを感じ、それも含めて複雑な気持ちがしたものだ。

[ 8 ]


この頃に起こった、他の事件も幾つか書いておこう。

1.向かい側に「朝霞三中」という中学校が有り、校舎の横に屋外プールがあった。とてつもなく暑い真夏のある夜、こっそり泳ぎに行こうという計画が持ち上がり、夜中に実行された。高い塀と金網をよじ登り、月明りの中、みんな素っ裸で泳いだ。初日は満喫し、嬉々とした顔で帰寮した。これに味をしめ、翌日第二弾が実行されたが、泳いでる最中、当直の職員に発見されてしまい、皆一斉に逃げ出した。結局、朝霞寮の学生の仕業だということはバレバレで、すぐに中学校から寮に苦情の電話が来た。その後、寮監の手配で、隣のH技研のプールが使用できることになりそうだと言うことになったが、暗くて陰気な場所だったので誰も行く気はなかった。

2.受験コースのピアノ科に「TM」という奴がおり、寮内では一番の腕だと言われていたので、ある日「ツェルニー」の課題曲を弾いてもらうよう頼んだ。彼は気安く引き受けてくれ、その日のうちにテープに自分の演奏を録音し持ってきた。僕が礼を言う と、すかさず手を出し「演奏料!」と真面目な顔で言ってきて、その感覚に驚かされた。彼はその後、寮内で疎んじられる存在となった。

3.「アリマ」は、その人柄も相俟って、遂に歌まで作られるほどの、ナメられぶりであった。彼は独特の声質を持っていたので、そのトーンを真似て、彼の口癖を多数織り込んだ歌詞で、頻繁に歌われた。実は、おサルさんの歌「アイアイ」の替え歌である。

4.宮古島出身の「下地」という奴がいた。彼は正義感あふれる人物で、寮で頻発する事件に心を痛め、いつも「こんなことじゃいけない」と熱く語る人間だった。そんな彼は何故か不思議なことに、オーバ氏をとても気に入っており、頻繁に尋ねてきては「な!オーバ。 分かってくれるだろ?」と、同意を求め、一人満足して部屋に帰るのである。当のオーバ氏は、というと「あんな馬鹿な奴も滅多にいない」と我々にこぼし、いつもあきれ顔で見送っているのだが、それでもまた彼は、オーバ氏が分かってくれているものと固く信じ、希望に満ちた顔で、部屋を尋ねて来るのであった。

5.ある日、オジサンは、学校に行きたくないと言い出し、東京タワーに連れてってくれ、と言って僕を驚かせた。僕は、学校はサボりたくなかったし、東京タワーも田舎者のようで嫌だったので、気乗りしなかったのだが、付き合ってやることにした。帰りに都バスに乗ったことと、「テレビ東京」の前で某「元」男性アイドルを見つけ、オジサンが興奮して走って見にいった事以外、何があったのか記憶にない。
翌日学校で、先生から怪訝そうに「昨日はどうした?」と問われ(普段マジメだったので)正直に答えたところ、その後クラスじゅうの知るところとなり、不名誉ではあったが、自分の不快感を全員で共感できて少しスカッとしたのを覚えている。

6.寮では、夜食に本当に苦労した。店は一件も無かった。初めのうちは誰かが実家から箱で送ってきたインスタントラーメン(カップ麺ではない)を丼に入れ、湯を掛けて、ふやかして食べたが、そのうちそれも面倒になり、袋ごと叩き潰し、粉々にして食うのが流行った。最終的には、寮の食堂に夜中忍び込み、炊事場の冷蔵庫から勝手に食料を選び出し、ジャーの御飯と一緒に混ぜて妙め、チャーハンにしてたらふく食った。調理はオーバ氏が担当し、取り分けた皿の下には、トレー代わりに、必ずELPの「タルカス」のレコードジャケットを敷いた。翌朝、朝食の材料が足りない、と賄いのオバさんが文句を言ってたりする時もあったが、概ね問題はなく、楽しい作戦だった。

7.寮生は、そもそも寮監をナメていたが、遂に寮監の口調の物真似「早く寝ろ〜」が大流行する事態になった。寮監は、当たり前だが、その事に大変立腹し、そのような態度のものは放寮も辞さない、と息巻いたが、まるで効き目がなかった。特にスワ氏が、この物真似をことのほか気に入り、僕らの方はどららかと言うと、寮監の真似と言うよりは 「寮監の真似をするスワの真似」をしていたようなものだった。
これに関しての最も面白い出来事は、ある日の早朝、午前5時頃、寮の前の市道で乗用車が電柱に激突した破壊音を聞きつけ、20人程の寮生がベッドから起き出し、こぞって事故車を見物にいったときに、寮の4階部分の窓からスワが顔を出し、その人々に向かって、非常用拡声器を使って「早く寝ろ〜!」と叫んだ、と言うものである。そのタイミングと発言内容の余りの絶妙さは、大爆笑をよんだ。

8.夏休み明けのある平日の夜、唐突に「伝説のワンマン学院長」が数名の部下を従えて、寮を電撃視察に訪れた。学院長は寮内の様子について部下に小言を言いながら全部屋を見回り、自分が気に入らない部分を指摘して部屋主を罵倒して歩いた。その後、全寮生を食堂に集合させ、まるで野球部監督のように長々と大声で説教し、寮長(学生)をはじめとする寮生数名を「だらしない!!」と代表で殴った(見せしめだったのだろう)。哀れな寮監夫婦は、なす術も無く子犬のようにオドオドし、ひたすら謝っていた。学院長はその寮監夫妻にも容赦なく小言を浴びせた。僕らは「伝説のワンマン学院長」についての「強面」な噂は知っていたが、そうは言っても体育系ではない音楽関係だし、これほどまでの恐怖政治を行う人物とは正直思っていなかったので、みんなあっけに取られてしまい、学院長ご一行が去るまで、ただ事の成り行きに身を任せていただけだった。そして想像通り、その後の寮内の空気は一変してしまった。まるで台風のような出来事だった。

[ 9 ]


オーバ氏との同部屋生活は、それなりに有意義な時期もあり、貧欲に色々な音楽を聴き漁ったり、お互いのテープライブラリーを交換してシビアに批評し合ったり、プログレのコピーバンドに二人で参加したり、と充実していた。しかし徐々に、僕の態度やキャラクターが鼻に付いてきたらしく、そういった点を指摘されるようになった。特に彼は、僕の世間知らずで青臭いような所が気に入らなかったらしく、ある日、ミュージシャンとしてやって行くためにも一度「例のブツ」をやってみるべきだ、と提案した。「例のブツ」とは、もちろん「違法な有機溶剤吸引」に関することで、当然の事ながら、そんな非社会的でしかも非合法的なことなど出来ない、とつっぱねたが、再三に亘ってその必要性を説かれ、最終的には、二人きりで秘密裡に行うこと、どうなっても必ず僕をケアすること、の二点を絶対条件に、受け入れた。それでも不安だったので、僕は、その一部始終を録音することにし、準備万端にして事に臨んだ。当時の僕は飲酒もまだ未経験で、一体どうなるのか見当が付かなかったが、結論から先に言うと、仲々興味深い経験をしたな、という感じだ。具体的には、ほろ酔いの良い気分がそのまま、ず〜っと持続する感じで、録音されていたテープ内で僕が説明しているところによると、「朝、起きなきゃいけないなあ、と思いながらも、あと5分だけ、とか言って、半眠している状態」ということである(我ながら仲々上手いことを言ったものだ)。約束に反して、オジサンなどが様子を見にきていたようだったが、余り気にならなかった。自分の予想では、もっと心のタガが外れて奔放な事になるのかと思っていたが、ただそのまま陽気になって、よく喋っていただけだったようで、僕の様子は普段とまるで変わっていない、と言う人さえいた。今思えば、微量だったので、この程度だったのかもしれない。
さて、既経験者ならぱ、この様子を見て血が騒くのも当然の結果であり、早速、カトー氏とオジサンが、今度は4人でやろうと提案してきた。大人数になるのは余り気が進まなかったし、メンバー的にも気乗りしなかったが、結局2日後にもう一度、その「例のブツ・パーティ」が行われた。用心深い僕は、再びテープで録音する用意をし、臨んだ。2回目の「パーティ」 は、もう気分的に旬ではなくなってしまったのもあり、惰性のような感じだった。カトー氏は「普段も、こんな風に人当たりが良けれぱいいのに」と僕に絡んできたりして、上機鎌だったが、次第に、自分にはJAが付いてるとか有名人も知り合いだとかいう大風呂敷を広げるようになってきて、一気に場を白けさせた。
翌日、学校での授業中に当てられた際、音程が採れずに歌メロを外してしまった、と云う恐ろしい目に遭ったこともきっかけになって、僕は「パーティ」への興味を無くした。今思い返してみて、その経験がミュージシャンとして何か役立った事が有るか、と言われると、特に無かったが、強いてあげるとすれば、この僕自身が実際に体験をして、また僕自身が自分の意思で終了を決定した、という、その事には意味が有ったのではないだろうか、と考えている(人生において、この2回きりしかやっていない)。
それからも、残りのメンバーの内、東北組の2名は、暫くの間、別のメンバーを加えたりしながら「パーティ」を続けていた。学校のカラーに馴染めず、居場所も見つけられなかったことを思うと、仕方のない事かも知れない。カトー氏の方も、外での活動が増えつつあり、寮での居場所も徐々に無くなり、気まずくなってきたこともあって、都内の「親類の家」とやらに寝泊まりすることが多くなった。
結果的に「パーティ」は、「最後に咲いた花」のような意味合いの催しとなり、その後、徐々に交遊関係は冷淡な感じになった。受験時期が近付きつつあった音大受験チームの雰囲気も影響し、寮全体もそういう重苦しい空気が支配した。 同部屋のオーバ氏は「パーティ」の所為で、どんどん気紛れで精神状態も手に負えなくなって来つつあり、話すのも大変な状態だった。遂に僕は、寮にこのまま居続けるのは有益ではないと判断した。ちょうど季節も12月で、残りの生活も3ケ月を切り、両親への面目もなんとか保った形となったので、退寮する方向で話を進めた。たまたまK込氏が、良い物件の話を学校でしていたのを聞きつけ、移住先は、その練馬区の部屋に即決し、転居した。

その後、僕は、3月頃になって一度だけ寮を訪れ、寮生と旧交を暖めた。そして、嫌われることも、浮いた存在に成ることもなく、無事に生き残ることの出来たメンバー達と、入寮式の日の、あの時のように部屋に集まり、過ぎ去った日々の話に、花を咲かせた。

[ after ]


カトー氏は、声楽専攻で「音大受験クラス」に入学し直す、という意表を突いた選択をし、自らのクラシック・コンプレックス振りを暴露した。管楽器の連中も、大体が上級クラスに進学した。東北組の2名は、それぞれ時期は違うものの、暫くして故郷に帰った。受験チームの連中は、合格した者もいれぱ、落ちた者もいた。確かに劣悪な環境だったが、ちゃんと東京藝大に合格した者もいるので、落ちたのは環境の所為ぱかりとも言い切れないところが残酷なところだ。そして僕は「S学院」の大学に進学した(これは大学コンプレックス)。

朝霞寮は、数々の伝説を残し、2年後に閉鎖された。現在、その場所にはマンションが建っている。

寮での生活は、悪夢のようなもので、確かに楽しいこともあったが、やはり大変辛い9ヶ月間だった。ただ、その辛さから一瞬でも逃れようと、七里ヶ浜の海を見にいったり、ドビュッシーなどのピアノ曲を聴いたり、外部の吹奏楽団に入ったり、ビーチボーイズやオフコースをみんなで歌ったり、と様々な試みをしたことが、結果的にその後の自分の世界を、より広げることになったのは紛れもない事実であり、それだけでも「あの日々」を耐え抜いた甲斐があるというものである。「出来るものならやってみろ」と、寮生全員が言いたいことだろう。



back