高浪慶太郎 feat.PIZZICATO
FIVE
- 今日はよろしくお願いします! 高浪:高浪慶太郎でございます。長崎に訳あって戻って参りまして、もう3年目になるのかな、3回目のくんちでしたから。 - では、まず「つかみ」ということで。デビュー前の1985年、代々木で行われたイベント「All Together Now」に参加されましたが、その辺のことを伺いたいと思います! 高浪:はっぴぃえんどの再結成ですね。僕の記憶では、再結成した理由というのは「ニューミュージック」というものに終止符をうつ、ということだったと、僕は記憶してるんですが、「ニューミュージック」というのは、はっぴぃえんどや松任谷由実さんが始めた頃に出来た言葉で、当時がちょうど全盛期だったも知れませんが、歌謡曲でもロックでもない音楽、それが出来た当初にあった志、というか、ある種、尖ったものがなくなり、歌謡曲と変わらないじゃないか、と。そんな風潮に終止符を打つ、という主旨だったという、少なくとも「はっぴぃえんど」はですね、だったと思います。その頃は、まだ僕はデビューしてなくて、細野(晴臣)さんの「ミディアム」という事務所に所属してて、レコーディングは終わってたのかな?、12インチシングル。で、6月くらいに、これ(はっぴぃえんど再結成)があるのでコーラスやってくれと。ノンスタンダードレーベルのアーティストたち、ワールドスタンダード、コシミハルさん、SHI-SHONENと僕らでやったですね。で、最初リハーサルがあるって言って、ニッポン放送かなんかのスタジオだったと思うんですけど、細野さんはしょっちゅう同じ事務所で見てましたけど、大瀧(詠一)さんなんか見たことないし(笑)、大瀧さんがいるというんで、もう一ファンでしたし。で、大瀧さんが「松本(隆)ドラム叩けるの?」なんて(笑)会話してらっしゃいましたけど。 - その当時はちょうどエレクトリックな時代だったからドラムなんかも打ち込みで。 これも、基本的なベーシックは細野さんが打ち込んだんですよね。細野さんのLDKスタジオというのがあって、出資がアルファレコードだったかな?で、細野さんがネーミング、自宅に居るみたいなスタジオということで「LDKスタジオ」という名前にしたんですけど、そこで僕らもファーストシングルをレコーディングしたんですが、スタジオに遊びに行った時に、お昼過ぎだったと思うんですけど、細野さんがマニピュレータさんにいろいろ指示して打ち込みをやってまして、それが前の日から続いてたらしく。その当時から「お昼なんか無ければいいのに」って言ってましたね。「ずっと夜だったらいいのに」って。26年前?細野さんも若かったでしょうしね。 - ニューミュージックに終止符を打つ、と言いながら、ニューミュージックのスターが勢ぞろいしてましたよね。 そうそう、「はっぴぃえんど」と「サディスティックス」、アルフィーさんとか。吉田拓郎さんがMCとか。今考えると凄いですよね。お昼頃会場入りして、ぷらぷらしてたら、坂本龍一さんを初めてお見かけして「白髪が多い人なんだ」って思って、割と小柄な方でしたね。あと、いろんな方居ましたけど、一番感動したのが小林麻美さんだったですね、田辺昭知さんの奥さんで、もう、小林麻美さんは雲の上の人ですけど、実際見れたのは当時の一番大きな思い出ですね。 - これに参加したのは「さよなら アメリカ さよなら ニッポン」だけですよね。 高浪:それだけです。ベーシックを細野さんが全部打ち込んだので、それに松本のドラムが着いて来れるか、って言うのを、大瀧さんがからかってたんですよね。そのときユーミンさんとか加藤和彦さんとか、みんな「はっぴいえんど」の楽屋に挨拶に来るんですよね、凄いなと思って、別に僕らに挨拶に来てるわけじゃないんだけど、面白かったですね。当時、細野さんもバリバリで、アイドルとかに曲書いてたし、大瀧さんもそうだったし、凄かったんですよね。なんかね、リハーサルって言うのがあって、その時間になっても大瀧さんが来なかったんですよ。みんな「大瀧来ないよー」かなんか言ってて、当時、携帯電話なんか無いから、皆やきもきして待ってたら、ホントにぎりぎりになって、のそっと入ってきて「今日だったかな?」とか言って入ってきて(爆笑)、なんかそういう人なんですよね。前もなんか、僕は、フィルスペクターのことについて、サウンド & レコーディングマガジンに原稿書くので、大瀧さんに話を聞ければいいかなと思って、和田博巳さん(はちみつぱいBassist)という方が「大瀧さんに電話してあげる」と言ってくれまして、緊張して「スペクターについてなんですけど」と言ったんですけど、なんか「かわす」んですよね。「そういうことなんで」、とか言って煙に巻くんですよ。よくわからないまま終わったんですよ。結局書きましたけど、何を訊いたのか、って結局よくわからなかった。面白い方でしたね。大瀧さん、その前後で、トニー谷の「さいざんすマンボ」というのが12インチシングルになってCDになったのかな?で、マスタリングを大瀧さんがやったんですよ。コロンビアのマスタリングスタジオでマスタリングがある、って言うので、見学させてもらいに行ったんですよ。大瀧さんがまずスタジオに入ってから、まず全部電源チェックするんですよ。で、ケーブルも出来るだけ短くセッティングして、フェアチャイルドっていうコンプレッサーで、一生懸命いじりながら。それで音が全然変わるんですよ。それはたまげましたね。生き返るというか。真空管のコンプっていうのが凄いんだっていう。目の当たりにしたっていう。僕らそのあと、テイチクからソニーに移籍したんですけど、その時のエフェクターですね。河合マイケル(元スクエア)という、当時ユニコーンとプリプリやってて、僕らが一番売れなかったんですけど、その河合マイケルさんが、大瀧さんのディレクターもやってて、いろいろ話聴いたことがあって、歌入れのとき絶対人をスタジオに入れないんだって、自分ひとりで入って、一人で卓(ミキサー)の前に座って歌うらしいんですけど、その間みんな廊下に出て待ってるわけですよ。スタッフも居ないんですよ。そんで、なかなか出てこないから、みんな心配してたら「今日は帰る」って言って帰って行ったんだって。それで、みんなスタジオに入ってみると、ソファー触ると暖かいんだって。「ああ、寝てたんだ」って思って。それでプレイバックしたら何も入ってなくて、間違えてオケ消しちゃったらしいっていう話があって(笑)。 - アルバム『EACH TIME』は苦労したと聞きましたが、そういう裏話があったんですかね。 高浪:そう、みんな真っ青になったという。どこまで本当なのかわからないんですが、そういう話を聴きましたね。 - それで、テイチク時代のEPなんですけど、実は『文學ト云フ事』という94年のTV番組(片岡K:演出)、今でもカルトな人気があるマニアックな番組なんですけど、それのBGMで「ちょっと出ようよ」が使われてたんですよ。もちろん当時、全然(高浪さんだと)知らなくて。アレンジがちょっと「Ram On(ポールマッカートニー)」っぽい感じがあって、ああそういう使い方があるんだ、っていうことが凄く印象強くて、ビデオに撮って何度も繰り返して見てたんですよ。そしたらその曲が、なんと「ちょっと出ようよ」だと最近知ってびっくりして(片岡Kさんご自身の選曲だったと 直接ご返答 頂きました。→動画)。 高浪:そういう使われかたをされやすい曲ですよね。当時は『ファッション通信』とか、そういうのにも使われてたみたいで。この曲に関しては、デビューする前に、小西さん、大学の一個上なんですけど、もう一人、鴨宮くんというのが一個下なんですよ。彼は青学じゃなかったんですけど、ベターデイズという青学のサークルは、青学だけじゃなくいろんな学校から来てて出入りしてて、作曲同好会じゃないけどそういうバンド、そのころ麻美子ちゃん居たのかちょっと定かじゃないけど、ともかく「曲を創ろう」と言って、「ティアックの144」を僕、マルイの月賦で買って、マルチレコーダなんか初めてだから。夢のようじゃないですか。それで1台でピンポンしてやって、ちょうどそういう活動やってたときに、大学の先輩のうちで皆で飲んで、みんなが寝ちゃったんですよ。それで一人になって、その辺にあったギターを手にとって、ちょうど「勝手にしやがれ」っていうゴダールの映画、その頃初めて観たのかな、正直言ってよくわからなかったんですけど、「なんなんだこれ?」とか思ったんですけど、音楽が印象に残ってて、(ギターで実際に弾く)こういう音楽なんですけど、この FM7 から Dm6 に行くのが、これが「お洒落だな」と思ってて、これで何か曲が出来ないかなと思って、みんなが寝てる横でちょっと作ったのが、この曲(ちょっと出ようよ)なんですよ。だから、まるっきりコード進行同じなんですよ。これ凄く今でも覚えててる。それで「ああそうだ、これ歌詞なんかつけずにスキャットの方がいいな」って思って持って行って、レコーディングのときに小西さんが「Ram On みたいにしようよ」って言って、僕と鈴木総一郎さんが弾いたんですよ。それまでもシャッフルではあったけど、当時ちょうど流行ってた、スタイルカウンシルの「Speak Like A Child」が、あれがシャッフルを打ち込みで、あれが凄くて、あのパターンを使って、「つつつ・たたた」という3連のリズムに入れたんですね。ちょっと固い感じの。で、タイトルを、ビーチボーイズのペットサウンズに入ってるものに、邦題を「ちょっと出ようよ」と意訳したんですよね。 - オードリー・ヘプバーン・コンプレックスも高浪さんですよね。当時けっこうメイン、という印象がありますね。 高浪:そうですね、ファーストはその2曲と、59番街橋の歌と。カバーは絶対やろうよ、と思って。カバーってのは好きだったので。人がやってるのも。なので、サイモン & ガーファンクルのフォークをテクノでやろう、っていうコンセプトだったんですけど。で、ちょうどその頃、小西さん、大学時代はそんなお話したことがなくて、大学の中でも変わった存在で。僕ら部室がなかったので、みんな学食でたむろってたんですけど、そう居場所にもあまり来ない、そういう人だった。ダラダラみんなとしゃべってる時間を、あまり共有しないタイプというか。悪い意味じゃないですよ。で、その、サークルで定例コンサートとかやってるときに、いろんなカバーが多かったんですけど、その曲とかを、「僕それのオリジナル持ってるよ」とか、そういう話してきたり、ベストMIXテープ作ってくれたり、そういう付き合いでしかなかったんですよ。で、それが、もっと密に付き合うようになったきっかけが、ヘプバーンだったんですけど、当時、TV東京で午後2時くらいから映画やってて、80分くらいに短く刻まれちゃうんですけど、そこでヘプバーン物ずっとやってて、ずっとお洒落だなと思って観てて。ヘプバーンってのは凄くメジャーな人だし、誰でも知ってる女優さんだから、小西さんとか、ヌーベルバーグとかマニアックなもの好きなんだと思ってたら、ヘプバーンのことで話が凄く合って、監督の話とかいろいろ、サブリナのスタイリストが〜だとか、彼はまた、そっちの方が詳しいんですけど、その辺で話が合って、僕が曲を創ったときに、小西さんの友達が「慶太郎も小西もヘプバーンコンプレックスなんだ」って言ったんですよ。それがヒントとなり、そのタイトルで歌詞を小西さんが書いたんですよ。 - バンド結成のきっかけなど、伺えますか? 高浪:最初「作曲同好会」を小西さんと宮田繁男(後のオリジナルラブ)さんとやっていて、宮田さんがドラマーとしてサザンの原さんのハラボーズというバンドにかかりきりになっちゃったんで、いち早くデビューしたわけですね。で、僕らどうしようかって言うので、当時バンドブームだったんで、デモテープ作ってレコード会社持って行くよりも、バンドやってライブやって目を惹くしか方法がない、みたいなことになって、バンドやろうかってなって、当時はテクノ打ち込みが全盛になろうとしてた頃だったんで、僕も小西さんも、打ち込みシンセ関係弱いので、シンセ知ってる鴨宮くんを。彼がDX7を持ってて、当時あれ、魔法の楽器だったので、それで彼を入れようと。彼は楽器で入れようと(笑)。で、女の子入れよう、となって、オーディション、と言っても大げさですけど、名もないアマチュアバンドが、いろいろツテをあたって、紹介してもらって、佐々木麻美子ちゃんが、当時僕らが目指してた、そのあと「お洒落なもの」となって行ったけど、そういうスタイルに一番近い存在だったので。でも全然歌とか歌ったことがない子だったんですよ。で、そんなに上手いわけじゃなかったんだけど、雰囲気はあるので、雰囲気を出すために歌の練習、というか、力を抜いて歌う練習、ウィスパーとかって、なかなか、出来そうで出来ないじゃないですか。けっこう息使うじゃないですか。「もっと抜いて」「もっとキョンキョンみたいに」って言って、やっとカタチになったときには、「それそれ!」って言って。それ以来、彼女はそれでしか歌えなくなったけど、それでそうなったですね。それで、デモテープを何曲か144で作って、出来たものをまず、当時青山に、「パイド・パイパー・ハウス」っていうレコード屋さんがあって、そこの店長の長門(芳郎)さんが、あとから知ったんですけど長崎の方なんですけど、その長門さんに持って行って、ちょうど『Believe In Magic』というレーベルを立ち上げた頃で、凄い気に入ってもらって、そこで最初出すことになったんですけど、同時にいろんな方に聴いてもらってたんですけど、和田さんという方に渡したテープが、細野さんに渡って気に入ってもらって、長門さんもティンパンアレイのマネジャーやってた人だから、うちでやるより細野さんのところでやったほうがいいよ、って言ってくれて、それで細野さんのレーベルに行った。というのが経緯なんです。 - 佐々木麻美子さんを起用したのは、やっぱり最初から「女性に歌ってほしかった」というのはあったんでしょうか。 高浪:うん。クロディーヌ・ロンジェとか、ロジャニコ(ロジャー・ニコルズ&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズ)とか、そういう女性の声がマストですね。 - あの当時、そういう音楽を、一般の人はあまり聴いてなかったですよね。どういった経緯でそういったものを聴くようになったんでしょうか。 高浪:僕は、小西さんに教えてもらったのもあったし。サークルの同級生が「パイドパイパー」にカットアウト版で売ってたのを「安いから買っておけば?」と言われて、それ聴いて、いいのでショックで、それ以降そっちの方向へ進みましたね。でも誰も知らないし聴いてなくて。 - 高彰さん(高浪さん実弟)に伺ったのですが、もともとはプレスリーとかそういったものがお好きだったということでしたが。 高浪:そうなんですよ。最初は洋楽は、直接的な影響受けたのはプレスリーでしたね。最初は僕が小学5年生のとき、啓示を受けた、というか映画に連れて行かれた。それが「エルビス・オン・ステージ」っていう映画だったんですけど、そこから50年代まで遡って、ロックンロールが好きになって、日本では歌謡曲とか。で、グループサウンズぽいのが子供の頃好きだったんですよ。それは洋楽っぽくもあるけど、歌謡曲っぽくもあって。その辺が筒美(京平)さん、というか、洋楽っぽくもあり邦楽ぽいと言うか、そういう好みに。で、サークルに居る人たちは、当時「洋高邦低」みたいな、洋楽絶対主義。「歌謡曲なんかダサい」という感じがあって、あまり人に言えなかったんですけど、小西さんや宮田さんの家に行ったら、歌謡曲のレコードが山のようにあって「この人たち、隠れ歌謡曲なんだ」と。で、みんな筒美さんとか馬飼野(康二)さんとか「作家」で聴いてたんですよね。そういう人たちと交友を深めていったということですね。それで作曲同好会をやってた。ベターデイズとは別に3人でやってたんですね。3人とも歌謡曲が好きで、作家になりたかったんですよ。前に出る人じゃなくて裏方さんというんですか。一番可能性があるというと、歌謡曲かな、というのがあって、みんなロックの人は自分たちで創るから。で、実際に歌謡曲みたいのが多くなりましたよね。大学のサークルでは自分が歌っていました。ピチカートのときは女性がメインで、男性はピタッと張り付くというか、輪郭というか、そういう役割でしたよね。「歌う」というより「寄り添う」みたいな。ロジャニコとかも、あれも、歌というよりはコーラスの一部みたいじゃないですか。 - それでCBSソニーへ移籍するわけですが。 高浪:EP3枚、テイチクで出して、契約切られて、細野さんのレーベルもなくなって、CBSソニーの河合マイケルが興味を持ってくれて。僕らDX7 があったから、ティンパニとかストリングスとか、DX7 で使えたけど、でも本当は全部ナマでやりたかったんだけど、そんな予算ないから。そしたらマイケルが「全部ナマでやればいいじゃん」と言ってくれて。それで「カップルズ」になった。テイチクのときは、基本的に打ち込みで、ソニーのときは全部ナマですから。宮田さんと、SHI-SHONENに居た渡辺等君とか、サークルの先輩だった斎藤誠さんとか、そういう人たちが居たので全部ナマでやったのがカップルズ。 僕は譜面が読めなかったんですよ。で、やっぱり他人にお願いするときは、バンドとかはヘッドアレンジで口で言えばいいけど、スタジオミュージシャンという人と初めて仕事するときだったので、譜面くらい書けなきゃダメだろ、と言われて、それでスタジオで書き方を教わって。ちょうど同じ頃に、長谷川智樹さんという方とふたりで「ウインク・サーヴィス」というアレンジチームを作って、あがた森魚さんの「バンドネオンの豹」というアルバムでアレンジさせてもらったんですけど、その長谷川さんが、ストリングスもブラスも書ける方で、その人から教わって。カップルズは、その長谷川さんと井上さんにオーケストレーションを頼んだんですけど、そこでいろいろ学ぶものがあって、それ以降は自分でやるようになったんだけど、カップルズのときは、そういう人たちが譜面書いてきて、ミュージシャンが演奏するのを黙って、凄いなあって、見てるだけでしたね。 1曲、細野さんにBass弾いてもらおうと思って。鴨宮君が作ったモータウンぽいのを弾いてもらって、細野さん、忙しい人だったから、2曲弾いたんだったかな、で、疲れちゃったとか言って帰っちゃって。そのあとに鴨宮君が「弾いてもらいたい箇所がもう一ヶ所あった!言い忘れた」と言って。それで、楽器だけ置いてあったので、それを僕が借りて、ちょこっと何小節か弾いた。細野さんは指だけど、僕ピックだけど。そういうことがあった。 - これはミックスが吉田保さんですよね。 高浪:そう。基本的に、保さんがソニーのエンジニアさんだったから。大瀧さんとか。 - 完全にロンバケやイーチタイム系の音ですよね。あれのリバーブってのは、スタジオのエコーチェンバーですか?それともデジタル? 高浪:デジタルはまだ無かったんじゃないかな。エコーチェンバーとか、スタジオの鉄板とか使ってたんじゃないかな。基本はリズム隊だけやって、そのあとストリングスとブラスとか重ねて。 保さんっていうのは、最初から言われてたんですけど「保さんにミックス頼むなら、もう何も言うなよ」と。何も注文つけるなよ、とか。言われてました。僕らも駆け出しだし。「はい」って言って聴いてて。保さんってラージ(スピーカー)でミックスするんですよ。ものすごい音なのよ。大音量で。で、当時テープだから、止めると「バーン!!」ってエコーの残りが凄くて、「ああ、かかってるんだ」って思ったんですけど。一応、保さんが「何かありますか?」と言うから、振られたから、せっかくだから何か言うじゃないですか、そうしたら「は〜い」とか言ってまた作業に戻るんですけど、あとからマイケルに聞いたら、変える振り(フェーダーを)するだけなんだって。それで「いいでしょ?」とか言って。「ギター上げてください」とか言っても「は〜い」とか答えて。でも、変えてる振りするだけだって。(笑) - フィル・スペクターも大音量でミックスするらしいんですよ。 高浪:でしょうね。あんな大音量で、よくわかるな、と思って。バランスとか。で、今はほら、ラジカセで聴いてみようってミックス確認するけど、当時は誰が何で聴こうが関係なく、もうあの大音量でミックス。スペクターといえば、ビー・マイ・ベイビー(ロネッツ)のレコーディングの様子、聴いたんですけど、あれはすごい。ハル・ブレインとかに指示出したり。 - 高浪さんも、ミュージシャンに注文出すときに具体名で出したりすることもありますか?ハル・ブレイン風にとか。 高浪:うん。宮田さんとか、何々風に、とか言うと判ってくれる人だから。サークルには部室がなかったので、週に2回教室借りて練習するんだけど、各バンド、10分とか20分とかしか、持ち時間がない。で、ある日、小西さんと練習入ったら、ドラムとベースの指示だけで、それだけで時間が終わって。それで全部、言い方があれなの。譜面じゃなくて、「あれは、あの曲のなに風に」とか。指示が全部あれ。あれは何風に、とか。当時から引用で、指示もそうだった。普通でも、まあ例えば、ベースはポールっぽく、とかいう指示あるけど、それの極端にマニアックなバージョン。クラシック界ではそういうことないでしょうから。でもロック界じゃ、そういうこと多いでしょうね。 - カップルズのときは何か実験的なことはされましたか? 高浪:オーソドックスなレコーディングだった。最後の曲とか、打ち込みのフレーズを聴きながら叩いてもらったとかあるけど、その程度。 - バンドで4名いて、曲を書く人が3名。高浪さんの自分の作曲については、その作風は意識してカラーを変えようとかは思っていましたか? 高浪:カップルズは「A-B-A形式」と言うものに拘りましたよね。当時、ニューミュージックとか歌謡曲は「A-B-C形式」が多かった。A、Bがあって、Cがあって、盛り上がって、とか。そうじゃなくて、スタンダードとかって「A-B-A形式」。だから、昔の歌謡曲とか本物のアメリカの20年代、30年代のスタンダードは踏襲しようとか思って。あとはソフトロックとかですよね。で、小西さんは実家が札幌なんですね、それで曲作る間は札幌に帰ってて。彼が基本的にいろいろプロデュースやってましたから、アルバム全体として。例えば、ロジャニコのA面のあの曲、フィフスディメンションのあの曲みたいの、とか集めると、いいアルバムが出来るな、と。 - では、最初からカタチを決めて、パズルみたいに創ると。1枚目から(既に)。 高浪:あと、どんな曲足りないかな、とか考えて、あのアーティストの、あの曲があるといいんんじゃない?とか言って。 - そう言われて足りない分を足したり? 高浪:最初からどんな形に作るか考えて、それで隙間があったらこういうので埋めて、みたいな。 「皆笑った」という曲があるんだけど、最初の3行だけ書いたのがファックスで送られてきて、その歌詞から曲を創った。同時期に僕、あがた森魚さんのアルバム創ってて、その事務所にアレンジャーと二人で待ってる、ファックスが何十枚と来るんですよ。架空の映画のサントラという創りだったので「バンドネオンの豹」という脚本みたいのがどんどん送られてくる。ファックス大活躍の時代だったですね。 - アパートの鍵という曲は、これは「くれないホテル」を意識されたのでしょうか?気持ちいいですよね。 高浪:まるっきりそうですね。「くれないホテル」って、僕らは「(バート)バカラックのフーズ・ゴナ・ラブ・ミーという曲を絶対意識してるよね」って思ってて、それを合わせたような曲にしようと。アレンジャー長谷川さんにも両方聞かせて、それでそのまんま仕上げてくれて、保さんもそう仕上げてくれて。で、「そして今でも」が、イントロがトム・ジョーンズの「よくあることさ」っていうと、フィフスディメンションの「アップ・アップ・アンド・アウェイ」と似てるんですけど、で、保さんが「どっちでいく?」って言って(笑)。 - 密かにみんな、楽しんでやってたんじゃないですか。 高浪:そうそう。そういうのが好きな人は。昔の音楽とか全然興味ない人は「なに、古臭いことやってるんだ?」と思ったと思いますけど。 - 打ち込みとか全盛の頃ですものね。バンドと。 高浪:「イカ天」かも出てきて、そういうサウンドが主流になりつつあるときに、カップルズみたいのはまったく受け入れられないだろうなと思ったけど、逆にそれが、精神的にパンクだな、と思ってやってましたね。 - で、ライブをしなければいけないということになって、佐々木麻美子さん脱退ということがありましたが。 高浪:そのときソニーから言われたのは、ライブしなきゃいけない、と。レコーディングするにしても歌が弱い、と。日本人って歌がメインだから。僕らはそういうの全然なかったんですけど、そういう決断を迫られて。あと、鴨宮君も。ソングライティングに於いて、僕や小西さんとテイストも違ったし、曲の創り方、僕ら引用、バックボーンが見える創り方というのが、鴨宮君はそういうのがあまりなかったので、ちょっと違うかもねってなって。小西さん、田島(貴男)くんに目をつけてて、カップルズやっておきながら「次はソリッドにしたい」と思ってて、それで二人に辞めていただいて、田島くんを入れた。 - 最初からそれは、カップルズ録った時から、次はそうしようと思ってたのですか? 高浪:いや、録ってすぐはそうは思ってなかったけど、カップルズはライブでできないので。一応、無理にやりましたけど、バンド風にアレンジして。でも、そうしても麻美子ちゃんの声量とかもあるし、できないんですよね。ライブはもっと、聴く方もやる方も、ビートがもっと効いてないと厳しいじゃないですか。歌謡界にいるわけでもないし、ある程度(ロック音楽業界的に?)前の方に行くには、ある程度パフォーマンスしないと。ちょっときついかな、っていうのがあって。 - 元々、女性ボーカルが好きで始めたのに、いきなり田島さんに変わったことに関して、違和感とかはなかったのでしょうか? 高浪:そうですね。全然違うものになる、形的には、そういうソウルアルバムを創ると言うことで、ソフトロックはカップルズでやっちゃったからと言うこともあったし。 - ああなるほど、一個一個済ませていくみたいな?一回やったものだから。 高浪:そうそう。田島君の歌は、レッドカーテンというのとオリジナルラブと、割と、ニューウェイブパンク系のバンドをやってた。でも彼、ソウルミュージックが好きだった。で「ああそうなんだ」ってなって、小西さんもソウル好きだから、そういうアルバムを。田島くん、声が色っぽいから。ソウルって要は、マービンゲイとかもそうだけど、神とセックスじゃないですか。それで、ああいう色っぽい声が合うなあ、と。セクシーな声って言うんですか。そういう、割とノーザンソウルで、ソフトなソウルですよね。あんまり汗臭くない。だからミュージックマガジンに「仏作って魂入れず」って書かれたけど、でも「ああ、上手いこと言うなあ」と思いましたよ。周りの人怒ってたけど「上手いこと言うなあ」って思ってましたよね。 - ご自身も歌われる高浪さんとしては、田島さん、という「他人の同性」に歌われる感じとか気持ちはどうでしたか? 高浪:一応僕が歌って聞かせて、田島君はもう、絶対、他人の真似なんかしないから、彼の解釈で。凄いよかったですね。 - あれ個人的には、トッド・ラングレンぽいと少し思いました。ソフトな感じで。 高浪:ああ。 ベリッシマのときは、ドラム宮田さんで、Bass小西さんが弾いて、僕もギター弾いて、田島もギターで、バンドで、ずっとリハしながら曲創って行ったんですよ。本番のときはギターとか頼みましたけど、固まるまではそういうバンドっぽい曲の創り方でしたね。 - で、次のが女王陛下。 高浪:女王陛下のときは、もう完全に「サンプリング」っていう技術が、楽器演奏しなくても出来るんだっていう。ちょうどその時代。で、ループとかそういうものが。小西さんが特にそうだった。ある曲なんか、一個も楽器入れてなくて、サンプリングしたものだけ繋いで完成。 - 当時機材はどんなものだったですか? 高浪:3348だった気がする。AKAIのサンプラと。 - 当時、日本では、そういうことされてる人はどうだったんでしょう? 高浪:あまり良く覚えてないんですけど。デラソウルとか出る前でしたから、あまりいなかった気はしますね。その、サンプリングというのが(コンセプトとして)もちろんあったんですけど、「女王陛下」というタイトルがまずあって、それに沿って曲創ろうというのがありましたね。ちょっとしたスパイっぽいサントラと言うか。 - バナナの皮はビーチボーイズですね。コーラスは皆さんでされたのですか? 高浪:歌いましたね。一番低いのが小西さんとか、高いのが田島君とか。 - あの曲は少しカップルズっぽい音ですよね。そういうのがいろいろ混ざってアルバムになっている。 高浪:そうそう。僕は、サウンド的にはカップルズの頃と変わってなかったかもですね。アレンジとかに関しても - そうですよね。僕、今回、ずっと高浪さんの曲ばかり繋げて聴いてたので「ずっと変わらないんだよな」と。そこがいいんだな、と。 高浪:そうそう、小西さんみたいに「全部サンプリング」とか。そうする勇気、というわけじゃないんだけど、やりかたもよくわからないし。 - その一貫してブレない感じが。3人時代のピチカートを好きだと言う人は、そういう部分を好きだったんだろうな、と思います。 高浪:そういうテイストと、小西さんとのバランスが上手く合ってたんだと思います。 - そう、そういう印象があって、高浪さんの場合はずっと「カップルズ」のマイナーチェンジみたいな作風で一貫してて。 高浪:考えると、僕は歌謡曲かもしれないですね。小西さんも、僕の曲は「歌謡曲っぽいよね、そこがいいんだけどね」みたいなことは言ってましたね。 - それで月面軟着陸。 高浪:「ベスト版」という名の全然違うアルバム。あれは面白かったですね。「ちょっと出ようよ」で戸川京子ちゃんとか。ライブは、(野宮)真貴ちゃんが(既に)コーラスで入ってたんだけど、田島君が辞めることが決まってて、月面は、次に備えて真貴ちゃんの場面も作っておこう、みたいな(経緯で「皆笑った」に参加)。 - 惑星の弦楽アレンジはご苦労されたと伺ってます。 高浪:元の曲は田島君のアレンジですね。それを、月面で弦楽カルテットにしようって言ったのは小西さんなんですよ。弦カルテット書いたことがなかったので苦労しましたね。さっき言った長谷川さんとか聞いたりしましたけど、普通にバンドのオケがあって、それにストリングスが加わるのと、弦カルって全然違うから、4つの弦楽器が全部違う動きがしないとサマにならないから、苦労しましたね。田島くん、また変なコード使うから。笑。最初ベリッシマやったとき「田島君のメロディ面白いね」って言ったら、「そうすか?」って言って、彼のギターの抑え方が上の4つしか押さえないジャズコード、一番上に来てる音テンションなんだけど、「それでメロディ作ってるだけっすよー」とか言って。スコアも書きましたね。指揮は出来ないから、ひざを叩いてやった気がする。 - 弦の人って怖いですよね。笑。 高浪:怖かった。呼び名もドイツ名とかで。ドレミで言ってくれって(内心)。管楽器の人はいいけど弦の人は。でも、何度もやってるとわかってくれたりしましたね。金子飛鳥さんとか、よくやったので、そういうときは、指揮できなくてもやってくれましたけどね。 - 歌謡曲とかプレスリーが好きだったのが、そういう弦のアレンジを勉強されて。独学で凄いですよね。 高浪:それは筒美京平さん(の影響)ですね。京平さんのアレンジに影響受けて。昔、夢のアルバムっていう、高護(こうまもる)さんって方が「リメンバー」って言う、歌謡曲の雑誌作ってらしたんですけど、今「ソリッド・レコード」というのやってるんですけど、歌謡曲で、この人の右に出る人はいない、ってくらいの人なんですけど、その「夢のアルバム」で、平山みきさんに曲を創る機会があって、その高さんが、弘田三枝子さんの「渚のうわさ」みたいな、ああいう曲にしてって。京平さんが作った奴なんだけど。あの頃の京平さんですよね。かなり影響というか、教わったんでしょうね。 - で、当時の唯一のシングルが高浪さんの曲「ラヴァーズ・ロック」で、ヴォーカルが野宮さん。 高浪:そうそう。タイアップが決まってたんですよね。その為に曲創らなくていけなくて、ヴォーカルがもう変わるから、名刺代わりみたいでいいかな、と言うことになって。シングルは、最初カップルズのときに「皆笑った」をシングルで切りたがってたんですよ。みんな。僕はどっちでもよかったんですけど、小西さんが「あれはシングルは切りたくない、アルバムという形だから」と。 で、あの頃はダブと言うのが流行ってて、それこそ「ラヴァーズ・ロック」だから、そのままですね。いわゆる、クラブというのが流行り始めた頃じゃないですかね。 - それでコロンビアに移籍となります。 高浪:ソニーから肩たたき(笑)。コロンビアが、そういう、割と時代が先に行ってるアーティストが当時いなかったので、そういうレーベルを作るというので、トライアド麻田さんという、シオンとかコレクターズのマネジャーやってた方なんですけど、セブンゴッドレコードと言うのをコロンビアに作るから来ないか、と言われた。でも、結局シオンが移籍できなくて。コレクターズと僕らだけ?がトライアドに移籍した。それが始まりだった気がします。移籍する条件として、まずシングルを 5枚出したいとか、それを受け入れて頂いたので、移籍した、と。 - ああなるほど。怒涛のリリースは、バンド側から提示した条件だった、と。 高浪:だから、ある意味、怒涛だったし。ともかく「モノが溢れてる時代」だったでしょ?リミックスも含めて。みんな、モノを買ったり集めたりするのが好きな時代だったから、アイテムは、出せるだけ出しちゃおう、みたいな。タワーレコードとかで、買い物カゴでCD買ってたもんね。コンビニじゃん?みたいな感じでしたものね。小西さんって凄いアイディアいっぱい出てくる人で、すぐ形にしなきゃ気が済まない人ですね。僕はもっとゆっくりでよかったんだけど。でも最近、彼の気持ちがわかるようになりましたけどね。アイディア出てくるとすぐやりたくなったり。ヒチコックが、アイディア凄くてどんどん出てきて、頭の中で出来て、映画撮る前に既に出来てるから、撮らなくてもいい、みたいな感じだったみたいだけど、そんな感じですね。ちょうどその、オタクというのが絶対ブームで来るって小西さんが言ってて、確かにそのとおりになったんだけど、世界的にそれが来たので、ピチカート・ファイヴも向こうでも認知されたんだと思うんですよね。オタクじゃないですか、知る人ぞ知る、とか、マニアックとか。絶対そういう時代が来るって豪語してました。早いうちから。レアなものとか、アニメ好きな人とか、そうじゃないですか。そういう人たちを(リスナーとして)想定してましたね。オタクの人は買うはずだ、と。ミックス違うとか、ジャケ違い、とか。 - ちょうど今、世界の話が出たので。僕は実はスイング・アウト・シスターが凄い好きだったんですが、共通性もあると思うのですが、どっちがどっちを影響されてたのか、もしくは同時発生だったのか、その辺が凄い興味あるんです。 高浪:関係なかったですね。スイング・アウト・シスター聴いたら似たようなことやってて。でも「カレイドスコープ・ワールド(SOSの2nd)」は、僕らの方が早かった。カップルズの方が、とか思ってた。ちょうど来日したとき、その縁もあってインタビューしたんだけど、ソフトロックとか好きで。ファーストはダンスものだったけど。 - みんな何をきっかけに、そういうの聴き始めたんでしょうかね。誰が仕掛けたんだろう?とかずっと思ってました。 高浪:もうちょっと早くのだと、クレプスキュール(LE DISQUE DU CREPUSCULEのことかと)とかスタイル・カウンシル。ルイ・フィリップとか。それが図らずも同時進行的に起こったんでしょうね。スウェーデンとかもそうだし、世代的に近いのかもしれないね。やっぱり再現じゃないけど、真似したり、とか、昔の音がいいから。トット・テイラーとか。ああいうので勇気付けられましたよね。 - それで、第一弾が「学校へ行こう」サウンドトラック。 高浪:小西さんがちょうどコレクターズのプロデュースをやっていて。今まで「劇伴」何個かやったんだけど、出したことがなくて、これは出せるように、コロンビアがやってくれたんでしょうね。ちょっとよく覚えてないですが。で、小西さんがコレクターズやってたから、サントラの方が僕が仕切る、みたいな。それまで劇伴とかやったけど、打ち込みが多かったので、すごい曲数もなくて時間がかかってたんですけど、「学校へ行こう」のときは、曲数も多いし、ホントに「劇伴」的な。一日7〜8曲録る、とか、そういうレコーディングでしたね。フルでスコア書いて。 怒涛の5連発のジャケットを撮る為に、フランス行ったんですよ。そのためだけに。5枚分。「学校へ行こう」もそうじゃなかったかな。それで、フランス行きましたね。ポスタージャケット。PVのことは覚えてないけど。5連発は最初に纏めて録って。「女性上位時代」はちゃんと創りましたけど、シングルは録り貯めしたのを出しただけだったと思う。 - あがた森魚さんのセルフカバーが入っていますね(レディメイドのピチカート・ファイヴ)。 高浪:小西さんのアイディアなんですよ。高浪くんがあれを歌えば?とか言って。僕、交通事故に遭って、それでちょっとコロンビアのデビューが遅れたんですけど。 - ボーカルが野宮さんと変わって。それまでと比べていかがでしたか。 高浪:真貴ちゃんって元々、田島君とかと比べると、すごい透明感があって癖がない。カップルズの頃はそういうのを求めてたんですけど、佐々木麻美子さんは声質で「ウィスパー」ということを求めてたんですけど、真貴ちゃんの時は、サウンドがそうじゃなくなってきたので、ポータブルロックのときの歌い方だと、音に負ける、と言うか、クラブっぽくなって行ったから、割と癖つけて歌うように、っていう方向にはしましたね。小西氏さんが、もっとロックっぽく、とか。で、彼女がそれをやっても、そんなロックぽくならないから、それがちょうどよかったんですよね。でも、真貴ちゃんはKISSの追っかけやってたんですけどね。笑。 - でも高浪さんの楽曲はあまり変わらないんですよね。高浪さんの楽曲だけ聴くと、最初の頃とあまり変わらないんですよ。それが面白かった。 高浪:そうなんですよね。そうかもしれない。 - 高浪さんの曲もクラブっぽいサウンドのものが増えてくのは小西さんが? 高浪:そういう風な方向に行ったら、それはせざるを得ないから、いろいろ聴いて、やりましたね。例えばループとかサンプリングとかに使うもの、それに何を使うか、ってセンスを問われたりする。それを選ぶのもめんどくさくて(笑)、小西さんってそういうの好きなんだ、何をコラージュするかって言うのが凄い好きなので、そういうのが苦にならない、どんどんしょっちゅう湧いて来てたんでしょうね。僕はそれ、何使うのか探すのがめんどくさかった。あの頃は、どっちに重点があるのか、曲なのか、アレンジなのか、よくわからなかったですね。 - ライブEP(レディメイド)みたいなジャズ風な路線と、クラブっぽいのが2本柱っていう感じに、当初はしたかったのでしょうか? 高浪:いや、そういうわけではなかった。「女性上位時代」も、結局あれもクラブっぽくもあるけど、それこそデラソウルとかに影響受けたコラージュだった。しりとりとか。自分が創るメロディとクラブサウンドとの折り合いが、あんまりよくわからなかった。 スウィートピチカート・ファイヴの頃、小西さんが「売れてるものがいろいろあるけど、嫌いなものも多いけど、いいのもある。マイケルジャクソンとか。大瀧さんもそうだし。彼らの強みはアイコンとか、「ぽう」とか言う叫び声とか、ああいうので一発でマイケル印というのが判る。そういう、売れててゴージャズなサウンドの中にもいいものもあるから、そういうものにしたいんだ」って言ってて、そこから「ベイビーベイビー」って真貴ちゃんが言うようになったんじゃないですかね。 - ああ、アイコンみたいな。ロゴと言うか。サウンドスペクタキュラーとかもそうですよね。ああ、なるほど。 高浪:そうそう。あの頃のアルバムってあまり聞き返したりしないので、記憶が凄くあやふやですけど。最近は振り返る時間もないし。 - なるほど、そんな中、僕みたいな「にわか」が、唐突に押しかけて。いろいろ尋ねたりして…(笑)。 高浪:いやいや面白いです(笑)。 時代的に、90年代って、マニアとかそういうものが隠れてたのが、一気に表に出てきて、各自「ここはおれ知ってるぜ」みたいな薀蓄を語ることが、ワインにしろアニメにしろ、ネット社会になっていったから、情報もすぐ得られるし。そういう時代になって行った。そういうものを「知ってるのがかっこいい」とか「お洒落」だったりとかする、薀蓄を語れたりとかする。そういう人を相手に、いい商売させてもらった、みたいな。 - 最後は「BOSA NOVA 2001」。あれは後半に、高浪さんの曲が集まってる、という印象があります。 高浪:あれはもう、あの時は、事情があって小西さんが余りスタジオに来れなくなった。あとフリッパーズ・ギターの影響力もあって、それでプロデューサを今回入れようと。(フリッパーズは)渋谷系と言われるものの「顔」だったから。そのフリッパーズとピチカートが、それで繋がるっていうのを「売り」というか「エポック」なモノにしたい、と考えてたんじゃないですかね。実際はそんなに交流があったわけじゃないから。それで小山田(圭吾)君に頼んだんじゃないですかね。 - では小山田さんがトータルに全体を見てたんですか? 高浪:そうそう、その頃はもう、僕が行く日は小西さんが来ないとか、そんな感じになってた。バンド末期の状況みたいな。ま、ベリッシマの頃からそんな感じはあった、マニピュレータさんもいるし、田島くんは田島くんでセルフ、みたいな。そこはバンドじゃないし。 曲順考えてるときに自然にああいう流れになった。小山田君は、凄い穏やかな人なので、僕よりホワンとした人なので、あるときは、とてもいいクッションになり、すごいいい、楽しいレコーディングでしたよ。あれも「ボサノバ 2001」というタイトルに対して曲を創る、みたいな。小山田君にも1曲頼もう、ってなって、入ってるんですけど、後から小西さん言ってたけど「結局、あのタイトルを誰もよくわかってなかった」って。だから、小西さん的には違ったのかもしれないけど。 - 小西さんは野宮さんの歌がやはり好きだったんでしょうかね? 高浪:ボーカルもそうだし、存在感。彼女、顔が黒人ぽいと言うか、日本で言う「綺麗」という感じじゃない、モデル顔というか、インパクトがあるし。彼女、着映えする人なんですよね。服とか。そういう存在感が。 - バンドの「顔」みたいな。 高浪:そう。そういうのが麻美子ちゃんとかと違うのかな。華があったというか。ライブもほとんどファッションショーだったし、ともかく着替える、衣装を着替えるとか。 - 高浪さんはそういう路線に出来るだけ付き合って? 高浪:そうですよね。だんだんほら、サンプリングで、バンドも。ライブは、ドラムも、打ち込んだリズムトラックがあったうえで生ドラム重ねて、Bassも小西さん弾いたりシンベだったり、ギターもブラボー小松さんとかに頼んだり、(だから自分たちの担当は)普通のバッキングじゃなくて、ガーっていう「音響」ですよね。僕らも、鍵盤にサンプル音源振って「スペキュタクラー」とか、そういうのだけ。それで、ちょろちょろしてるとかいう。そういうライブ、ぼくはあんまり得意じゃなかったのかもしれない。 - バンドのほうがやっぱりお好きなんですか。 高浪:そうですね、自分の居場所があるって言うか。踊れるわけじゃないし。旗振ってるだけですよ(笑)。演出としてはすごい面白かったですけどね。 - それでウゴウゴルーガ。あれには高浪さんの曲がないので。 高浪:あの時は、けっこういろんな人のプロデュースしてて忙しかったんですけど「ミー・ジャパニーズ・ボーイ」をアレンジしてって言われて、マドンナのあれみたいに、って言われて、それ聴いて、そういう風にしたっていう。それだけしか多分やってない。 - あの曲(ミー・ジャパニーズ・ボーイ)には拘りがあるんですか?今もされてますよね(龍馬のハナ唄→動画)。 高浪:あれは好きでしたからね。リアルタイムじゃない。最初はハーパーズ・ビザールじゃないですかね。64年の曲だから。日本じゃあまりヒットしてない、ほとんど知られてないと思います。ああいう「なんちゃってエキゾチシズム」「なんちゃってニッポン」みたいの好きなんで。 - あれおもしろいですよね。僕も好きで、ビーチボーイズの「思い出のスマハマ」とか、ベンチャーズがたくさん作ってて「京都慕情」とか、ああいうのが好きで、ああいう日本物に、ちょっとお洒落なコード付けるのが凄く綺麗。吹奏楽でも、民謡をそういうアレンジにしてのがよくあって、ああいう路線は個人的にも凄い好きですね。合うんですよね。不思議に。 高浪:今度CD出すんですけど(ナガサキ洋楽事始め)、君が代のファーストバージョンというのがあって、イギリス人が作ったんですけど、歌詞は同じなんですけど、それがけっこう良い曲で。君が代の歌詞をローマ字にして(作曲家に)渡しただけなので、言葉の区切りとか違うんですけど、いいんですよね。10年間くらい歌われてたみたいなんですけどね。歌いにくかったんでしょうね。 - なるほど、ハル・デイヴィッドとかユーミンとかもそうだけど、歌詞の、意味が全然違うところでメロディ区切ったりする。あれを今、お話伺って思い出しました。 高浪:大瀧さんとか、そういうのを細かくやってそうですよね。はっぴいえんどが面白いのはそこだと思いますよね。松本さんにしてみれば、変なところで区切られた、とかあるでしょうね。インパクトにはなるんですよね、変だと同時に。 - それで、ウゴルーはそれと。それで全米デビューですが。そのEPの実質1曲目が「Baby Love Child」で、高浪さんの曲で、これが一応EPのメインなんですね。 高浪:あれも、アメリカ発売するときは、サンプリングの元、全部書かされましたね、どこからサンプリングしたか、とか。 向こう行ったときにコーディネーターが居て、レコード会社とか連れて行かれて、マタドールも行った気がするけど。ミュージックセミナーという音楽イベントがNYであって、日本から僕らと、ビブラストーンと、少年ナイフと、もう一個バンドが行ったんですけど、それでレコーディングもしたんじゃなかったかな。オケをバックに真貴ちゃんが歌っただけだったけど。アメリカ版「5 by 5」までは僕も居たんだと思います。そのあとはオーバードーズ?そこからは居ない。 - その時の経緯とか、お気持ちとか、もし伺えれば。 高浪:なんというんでしょう。事務所が、元々長門さんと始めた「グレイテストヒッツ」というのが「パイドパイパーハウス」の中に在ったんですけど、それが、長門さんが手を引いて、麻田事務所に間借りして、当時のマネジャーがそこ出たときに独立して、ピチカート・ファイヴだけじゃやっていけないので、他のアレンジャーとかも入れたんですよね。小西さんは、それが面白くなかったのか、本の出版社の人と事務所作って。真貴ちゃんと「どうする?」ってことで、アメリカ行くのに、真貴ちゃんは小西さんと一緒が良いと。そういう事務所間で、いろいろめんどくさいことがあって、たぶん、小西さんも、互いに一緒にやっても、あまりよくないんじゃない?みたいのがあったんだと思うんですよね。あれはあれでよかったと思う。 - 小西さんは野宮さんを凄い気に入って、すごいやりたいことが見えたんでしょうかね。 高浪:うん。真貴ちゃんでやりたいことがいっぱいあったんでしょうね。僕は多分それが、小西さんほどなかったんだろう。ああいうクラブ系のあれで、ああいうファッショナブルでっていう。彼の場合アイディアから入るから、それに合う音楽みたいに。僕は多分そこがちょっと違ったんでしょうね。 - 今回ずっと、高浪さんの楽曲さんのみずっと聴かせていただいて、デビューもそうだし、要所要所が全部高浪さんの楽曲なので、そう聴くと、けっこう高浪さん色が強いなあと思って聴いてました。 高浪:うん。インパクトとかそういう意味では、一般的には違うイメージがあると思いますけど。 - シングル切るのはどなたが決めてたんでしょうか。 高浪:一応メーカーが。でもラヴァーズ・ロックはタイアップが着たからその為に書いたから。それ以降のは全部小西さんと。 - そう考えると、(楽曲的に)けっこう高浪さん中心、と思ったりしました。 高浪:中心ではないけど、音楽的にはいいバランスだったんじゃないかなと。 - 高浪さんの凝ったコード進行とメロディアス路線、というのと。 高浪:それと、インパクトあるものが同居してたんで、どっちかだけだったら、また違ったものだっただろうなとは思ってますね。 - そういえば「ヴァカンス」も古い曲だと、高彰さんから伺いました。 高浪:うん。大学生のときに創った。小西さんが気に入ってくれて。ロジャニコを聴いて創った曲なんですけど、小西さんもロジャニコ聴いて創った「2」っていう曲があって、ニューウェーブっぽいアレンジでやってたんですけど。ロジャニコが凄く結びつけてくれて。本当はもっとロジャニコっぽいアレンジで作ってたんですけど、結局、今CDになったのは、あのジャズっぽいのしかないので(レディメイド)、いつかやりたいと思ってますね。 - そうですね、皆既日食とか、特にクラブ系になってからので、セルフカバーみたいのがあればいいなあと、なんとなく個人的な、仄かな希望としてはありますね。 高浪:そうね。曲が出来ないときには、セルフカバーでもしようかなと(笑)。 - 最後に、最近のりリースについても、ちょっと伺えますでしょうか。 高浪:月琴と明清楽にスポットを当てた、それと洋楽ミックスした、青盤赤盤。あと、今度創った、長崎と西洋音楽を折衷というかセレクションしました「ナガサキ洋楽事始め」というアルバムを創りましたので、是非聴いてもらいたいなと思います。シーボルトが創った曲とか、君が代のファーストバージョンとか入っていますので。是非。 - 最近の長崎での活動を拝見すると、人生のまとめ的なものもあるのかな、と思ったりしたのですが。実は僕は、自分の故郷の釧路が嫌いなんですよ。でも自分の音楽や感性は、結局その故郷で子どもの頃に培われたものも多い。そうすると好き嫌いは別にして、いつか向き合わなきゃいけない時も来るだろう、と。高浪さんも、そういう部分があるのか、どんな感じなのだろう、と思いました。長崎は歴史もあるし、いい町だし。やっぱりお好きなんですよね? 高浪:僕は離れて初めて判りましたけど、客観的にいろいろ「異邦人的な目」と言うんですかね。それってやっぱり、一回外に出てよかったなと思いますよね。 - そうした自分の子供時代を、今肯定して確認して歩くみたいな。 高浪:もあるし、特に長崎は、明清楽とか教会音楽とか、音楽ネタもそれなりにいっぱいあって、それと上手くリンク、今の自分とね。要素がいっぱいあるから。他の土地に行ったら、多分こういうこと出来ない。そういう意味では、長崎に生まれてよかったな、と思います。 - 最初、ピチカート・ファイヴと、最近の高浪さんのものが結びつかなかったのだけど、僕もいろいろ街の中を歩いて歴史を辿ったり、いろいろリンクして判ってきて。高浪さんも、自分の確認というか、そういうこうことをされてるんだな、と。そう感じました。 高浪:今、音楽って、昔僕らが聴いてた頃の音楽と、存在感が変わってるでしょ?CDが売れるわけじゃないし。昔とは違うんだ、というときに、何かとミックスさせなきゃ、というときに、音楽だけじゃなくて、歴史とか長崎とか、そういうのがあれば、今やりたいことがある、みたいな感じですね。この長崎ものは、次に「ムード歌謡」をやって。やろうとしたときに、何と結びつけるか、っていうのが、自分の中で興味がある。それも「銅座」っていう町の歴史とか、あの辺が華やかだった頃の。銀馬車とか、でかいキャバレーがあったころ。僕は行くような歳じゃないので、完全に想像の世界でしかないけど、そこで歌ってらっしゃった方とか。東京だとゴールデン街とか。そういうのと自分をミックスさせたいですね。
高浪慶太郎オフィシャル : プレイタイム・ロック 高浪高彰さん著「筒美京平の世界」 【編集後記】 というわけでいかがだったでしょうか。筋金入りの「ピチカートマニア」が世の中に多数居る中、こうして僕みたいな「ピチカートにわか」がインタビューさせていただいて、ホントに申し訳ない気持ちもありますが、そういう僕だからこそ、聴けたこともあるのではないかな、と思ったりしています。また僕は、故郷が北海道で、長崎の人間ではありません。そういった意味でも、まあ、シーボルトとまでは言いませんが、外からプラっと来た「よそ者」が、いろいろ興味を持って探って歩く、というのは、また別な意味で面白いんじゃないか、と思ったりしています。高浪さんとのお話は実に楽しく、時間もあっという間に過ぎました。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。また、こうしたご縁を創って頂いた 長崎雑貨「たてまつる」 高浪高彰さんにも多大なる感謝をいたします。 最後に。このインタビューを試みようと思ったきっかけ、といいますか、気持ちを後押ししていただいた方、yomoyomoさんに、この場をお借りしてお礼を申し上げます。yomoyomoさんも長崎出身で、ご自身のブログなどで、そういった故郷のことや高浪さんのことなどを書かれていらっしゃいます(リンク1・リンク2)。そういった、現在、他所の土地に住まれてる長崎人としての視点や考え方、また熱い思いなど、大変参考になりました。ありがとうございました。 2012年1月8日 唐川真 Maicou Music All Rights Reserved. ツイート |